村田佑輔ブログ◆天佑不待

役者・村田佑輔によるアレやコレやソレ

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「浮霧道中」其之参「清」後


「確かに清久はウチの八重橋の新造ですがね」
立花屋の団次郎と名乗った番頭は、迷惑そうな表情を隠そうともしなかった。

繁山という名の浪人から得た情報を頼りに次郎兵衛は立花屋へとやってきた。成る程かなりの大見世である。と同時に、あの明け方に迷い込んだ方向や距離とも合っているようにも思えた。

「無作法も無粋も承知している。一度だけ遊ばせて貰えないだろうか」
「ですがね、八重橋はこの見世でも筆頭の座敷持ちだ。初回じゃあ…」
「構わないよ。用があるのは清久という娘だけだ」
伊達に初回遊びだけ何度も経験している訳ではないが、あまりしつこく迫って若い衆を呼ばれれば、そのまま大門の外に叩き出されてしまう。
「お客人、どこで名前を仕入れたか分かりませんがね。清久は突き出しも済んでない振袖新造だ。初馴染みにゃ段取りも相手も八重橋の面子ってのがあるんでさ。アンタが単に水揚げすンのが趣味ってだけなら…」

番頭の言葉に下卑た色が混じった刹那、足元から鈍い音が響いた。

次郎兵衛が床板に掌を叩き付けたのだ。その手をどけると、
「六両ある。名代として顔を合わせるだけで構わない。宜しいだろうか」
高級遊女の馴染になる迄の総額を超える。これには番頭も目を丸くして頷くしかなかった。

そのまま次郎兵衛は引付茶屋ではなく空いている座敷に通された。金が物を言った、というよりは近くに置いて牛太衆に見張らせた方が良いという判断だろう。
酒も食事も芸者も入った座敷の中で、次郎兵衛はぽつんと独り己の中に灯る炎の存在に驚いていた。

(江戸でも質素に暮らしていて良かった…が、今夜の出費は口が裂けても人には話せないな)

このまま上州に戻れば“己”など全く身体の中に居らぬ生活が待っている。
おそらくどこまでも平穏で、平凡で、虚無の広がる人生が。
もしかしたら自分は、その前に何かとてつもなく阿呆な事をしでかしてやりたかったのかも知れぬ。

金の殆どを使い切って、慕い合った女の為ならまだしも、いっとき顔を合わせただけの少女にもう一度会う為だけに吉原に来てこうして肩身を狭めて座っている。

何とも痛快ではないか。柿右衛門あたりが聞けば大笑いを通り越して絶句するだろう。

そんな事を考えていると、いつの間にか障子が開いていた。そこに座っていたのは、

「八重橋花魁が名代、清久でありんす」

次郎兵衛は息を呑んだ。そこにいるのは確かにお清だった。しかし化粧を施され美しい着物を纏ったその姿は、無垢な少女とはうって変わって、傾城花魁そのものであった。大きな瞳は一度交差した後伏せられたまま、薄く笑みをたたえているだけである。

ふと視線をずらすと、お清の後ろに童女が隠れる様に座っていた。恐らく八重橋の禿なのだろう。不安そうな瞳の奥がどことなく懐かしく感じられた。その視線に気付いたお清は、
「申し訳ございんせん。世話の手の者が足りずに…これ、珠江、お客人に御挨拶をしなんし」
「よいよい。姉さんが近くに居らずに不安なのだろう。ほら、珠江とやら。ここに来てごらん。菓子をやろう」
そこで漸く禿の表情が晴れた。

これが、次郎兵衛とお清が交わした会話らしい会話であった。
酒を飲みながら次郎兵衛は一人己の身の上話をした。明け方に戻る事も。
それ一つ一つにお清は、只々静かに笑って頷くだけであった。

夜も酔いも深まり、次郎兵衛は添い寝も断り皆を下がらせ、座敷で横になっていた。

(何ということはない。だが今宵の出来事は己の今生にとって充分だ。充分過ぎた)

いつ振りか分からぬ、心地良い眠りに誘われていた。
すると間もなくして次郎兵衛を揺り起こす手があった。明六つまでにはまだ時が早いはず。無理を言った腹いせに牛太郎が起こしに来たか。
そんな事を呆っと考えながら、仕方無く次郎兵衛は眼を開けた。

「お清だよ!」
「?!?!?!」
思わず大声を出しそうになる口を手で必死に押さえた。
目の前に居たのは廓の新造ではなく、霧の中の少女であった。
「次郎兵衛さま、こっそり外に出ない?」


あの時と、同じであった。

日が昇る前の薄明かり。濃い朝霧の中、砂利を踏む音が鼓動と同じ調子で響いていた。
「お清驚いたよ!また次郎兵衛さまに会えるなんて」
ここに至る迄には随分と苦労があった。という事は無粋であろうと次郎兵衛は口を噤んだ。
「驚いたのはこちらの方だ。まさか筆頭八重橋の振袖新造が、朝方抜け出して道中の稽古をしているとは露とも思わぬ」

「…お清は、立派なおいらんになるんだよ」

振り返ってお清が眼を細めた。
その瞳の奥に淋が宿っているのに気付いた次郎兵衛は総毛立った。己の心の篝火を見た後だからであろうか。あの時の薄暗い感情が、激しく波打った。

「お清…お主はこの様な苦界にその身を置かれて何故そう無邪気に笑えるのだ。己ではどうする事も出来ない、この先決して晴れる事の無い霧の中で……誰でも簡単に死んで、簡単に忘れていくのに!」

次郎兵衛の言葉は最後、お清を捉えてはいなかった。

自分と、同じ。同じはずなのに。なのに何故。

「次郎兵衛さま、泣いているの?」
「違う…これはお前の為ではない。己の為の、卑しい情なのだ」
兄の死と、父との光景が蘇る。

「次郎兵衛さま、お清は嬉しかったよ。次郎兵衛さまが沢山吉原に来て、お清を探してくれた事」
「お主、何故それを…」
「十平と団次郎さんが話してるの聞いたの。嬉しい事、優しい事。次郎兵衛さまがして欲しい事、只々無心にお清にしてくれた」
霧が、苦界から身を隠す様に二人を包んでいる。

「ねえ、次郎兵衛さま知ってる?霧と雲って同じモノなんだって。山に雲が掛かれば、山に居る人は霧だって言うけど、地上に居る人にとっては雲なんだって。
 だからね。私にとって此処は霧の中なんかじゃなくて、雲の上なんだよ。
 そう思って生きていけば、どんなに辛くても、幸せはきっと見つかるはずだよ。


 だって次郎兵衛さまは、お清を見つけてくれたもの」








風が  吹いた。


そして次郎兵衛の人生を覆っていた霧が晴れ、清々しい光景が広がっていたのである。

何だ これは。

こんなにも簡単に、人は人に佐(たす)けられるのか。

「次郎兵衛さま、ねえ見て。雲の中の花魁道中だよ!」
お清が満面の笑みで霧の中、外八文字を踏む。
霧中の振袖新造の稽古は、次郎兵衛にとっては確かに、雲の上の花魁道中。
いや、
浮いた雲の様な霧の中を進む、お清という少女の道中であった。


気付いたときには、次郎兵衛はお清を抱きすくめていた。
「あれ?次郎兵衛さま。次郎兵衛さま?」
空いた腕をぱたぱたと振るお清の声を聞いて、漸く次郎兵衛は我に返った。
「すまぬ…なあ、お清。お主が立派な花魁になる頃、私はきっとまた江戸に戻って来よう。その時はまた逢ってくれるか」
「?次郎兵衛さまはお清を身請けしてくれるの?」
「は、早まるでない。お互い朝霧での成果が出たか確かめ合いっこだ」

霧の世の救い主は、再び全てを吹き飛ばす笑顔で応えた。
「うん!お清は立派なおいらんになるんだよ!」










あの日、総てを救われた。

霧の花街で憂世の彼方を見せてくれた君に。

ならばせめて、君の周りの霧を私が晴らしてやりたかった。

だが私は気付けなかった。このときは知る由もなかった。

君の笑顔に救いを求めるあまり、その笑顔に霧を掛けたのは、他でもない私自身だったのだ。



「浮霧道中 -異聞・憂世彼方-」終
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「浮霧道中」其之参「清」中

それから暫くして上州から再び文が届いた。祝言の手筈が整ったので帰参せよ、との旨であった。
数日の間には江戸を出立しなければならない。
準備は既に済んでいた。が、次郎兵衛はなかなか宿を出ることができなかった。
霧の中の光景が、否、霧中に浮かぶあの娘の姿が、次郎兵衛の脳裏から離れなかったのである。

またね

あのとき、お清の口が形作ったであろうその言葉。その意味について次郎兵衛は数日、薄ぼんやりと思案していた。
『吉原は拍子木までが嘘を言い』
という言葉通り、おそらく遊女の手練手管なのであろうが、およそ苦界に生きる女郎らしからぬ無垢な笑顔が次郎兵衛の心を波立たせていたのだ。

あの笑顔が本物ならば、彼女は己の居る所が地獄と知らぬのか。それを知ればあの娘の顔にも霧が掛かるのであろうか。自分と同じ様に。

その様な薄暗い想いが首をもたげた。が、次郎兵衛は、
「なに、奇妙な縁で顔を合わせた間柄だ。餞別代りに遊んで行き、別れの挨拶をするのも江戸の粋らしいではないか」と、もっともらしい理由を並べて己を納得させた上で、漸く腰を上げたのである。

しかしながら次郎兵衛には吉原遊びの覚えもなければ、お清が何処ぞの遊女かも皆目分からない。
角吉に頼み込んで教示を受けるのも一手ではあるが、妙な勘繰りをされても面倒だ。
そこで次郎兵衛は暮六つの鐘が鳴る前に五十間道にある茶屋に入り、お清という名の女郎が居る見世がないか聞いて回ることにした。それらしい話を聞けば金を払い、口も利かぬ初回遊びをしては翌日別の見世を探す。三日も経たずに「床入れもしたがらない田舎の妙な吉原狂いが現れた」と、界隈で噂が立ち始めたのである。
しかし次郎兵衛。なに、もう金輪際吉原に来る事もなかろうて、と、気にも留めない。

それでもいよいよ出立の引き伸ばしも限度を迎える。今宵逢えなければそれまでの縁だったという訳だと、次郎兵衛は細見片手に吉原行きの男衆を捉まえては話を聞いて回った。

「私も長い事吉原で遊ばせて貰っているがね。お清という名の花魁は聞いた事がないね」
通い慣れているだろう初老の商人はそう言って茶屋から出て行った。
「旦那、引付茶屋に行くならそろそろ大門くぐらねえと」
茶屋の主人にそう言われ、次郎兵衛は仕方無しと立ち上がろうとしたときだ。

「おせいというのは清の字を書くのか?」
「いえそこまでは聞いておらぬのです」
横からの声に思わず応えてから、はてと振り向いた。そこに立っていたのは一人の浪人風体の男。
よくよく見ると次郎兵衛が見惚れる程の美丈夫である。だがその顔立ちには不釣合いな、みすぼらしい着物を纏っていた。
次郎兵衛が困惑していると、その男は次郎兵衛が広げていた細見の一端を指差した。
「もしそうであるならば、立花屋の清久という女郎がそうかも知れぬぞ」
それだけ言うと男はそのまま茶屋を出て行ってしまった。
「あの方は?」
「繁山様ですかい?どこぞの御武家様の次男坊でよく吉原に通ってたんですがね。お家が改易されたとかで今じゃ時たま河岸女郎を買いに来る程度。近頃やや子が生まれたばかりだと聞いてたんで不憫でねぇ…」
主人の言葉を受けて、次郎兵衛は遠のく男の背中を見送りながら思った。

不幸であれ、豪雨の如く劇的であったならば…己の今生が霧の中にあるような思いをせずに済んだのだろうか、と。

| 舞台 | 08:40 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「浮霧道中」其之参「清」前

『雨が降ったり止んだりする様に、この憂き世は己の思う通りにならないこともある。

けれど貴方の心には、どちらでもない、ずっと霧が掛かっているようだった』


「浮霧道中 -異聞・憂世彼方-」



お清と名乗ったその娘は、よくよく見ればまだ年の頃も15、6といった少女であった。
次郎兵衛と大して歳は離れておらぬが、快活な話し方とその瞳がやや娘を幼くみせた。
「お清とやら。このような刻限に、ここで何をしている」
小さな声で次郎兵衛はお清に訊ねた。不覚と言えど朝方に勝手に大門を通った事が四郎兵衛会所の者に知れれば何を言われるか分からない。
しかしその様な事情は露知らず。お清は先程と同じ元気な大声で応えた。

「お清は立派な花魁になるんだよ!だからここで道中のお稽古をしているの」
「これ、もう少し静かに話しておくれ」

そう言う次郎兵衛の慌てた姿が余程可笑しかったのか、お清は大きな瞳を更に丸くしながら笑顔を浮かべている。
「ああそうだ。外に出ているのが知れたら姉さんや十平に怒られるものね」
じゅうべえ、とは番頭か牛太郎の名であろうか。ここにきて漸くお清は声を潜めた。
「じろー…様はこんな刻限に、切り見世帰り?」
「佐野次郎兵衛だ。見物に来ただけだと先程申した。霧が濃くて入り込んでしまったのだ」
思わず早口になる。
「大門ならあっちだよ。お清が連れてってあげる」
そう言うとお清は次郎兵衛の袂を三指で摘み、濃い朝霧の中を悠々と歩き始めた。
「見えるのか?この霧の中で」
「この時季の明け方はいつもこうなの。お清は毎日この時間にこっそり外に出ているから慣れてるんだ」

雪駄が、湿気を含んだ砂利を踏む音だけが響いた。

程なくしてお清は手を放し指を差す。そこが大門ということだ。大門のすぐ横には番所がある。不寝番に見つからぬ様に帰してくれる心積もりなのであろう。謝意を込めて軽く頭を下げると、お清は笑顔のまま口だけを三度動かした。


ま・た・ね


五十間道の先にあるはずの見返柳が、大きく風で揺らいだ気がした。

| 舞台 | 11:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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阿吽剣究会4月稽古スケジュール

【4月の稽古スケジュール】

1(土)
■柏木地域センター会議室1B→A
17:30~19:30
19:45~21:45

8(土)
■大森東地域センター 第1集会室
18:00~22:00

15(土)
■落合第一地域センター第一集会室B
17:30~21:45

21(金)
■柏木地域センター会議室1B→A
17:30~19:30
19:45~21:45

29(土)
■大森東地域センター 第1集会室
18:00~22:00

| 阿吽剣究会 | 12:31 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「浮霧道中」其之弐「霧」

『霧が晴れずとも心は晴れる。
君の言葉にそうあった。
ならば霧中にいる君の周りを晴らすには、私はどうしたら良かったのだろうか』

「浮霧道中 -異聞・憂世彼方-」

豪農の息子、佐野次郎兵衛の江戸逗留も半月が過ぎた。
見るもの全てが新しく、目まぐるしく、時が経つのはあっという間だった。
その日も、下男を連れて材木問屋、廻船問屋、油問屋、絹問屋と見てまわり休憩がてら縁日に立ち寄ったところであった。

江戸の喧騒は怒気の薄い張り声と、笑いの塊りのようなものであったが、次郎兵衛はどこかそれが自分の体躯をすり抜けていくように感じている。

己が死ねば笑いは聞こえぬし、他が死ねば笑いは起きぬ…

周りが眩しい反面、全てが靄掛かって見えた。

「次郎兵衛さんよ」
いきなり背後から声を掛けられ、次郎兵衛は一瞬身をすくめた。出立前に父親から譲り受けた脇差に手を掛けそうになった程である。なんのことはない。この次郎兵衛という男は予期せぬ事象は全て敵意と取る悪い癖がある。
「なんだ、角吉さんかい。驚かさないでおくれよ」
振り返って漸く次郎兵衛は胸を撫で下ろした。
声を掛けた男は江戸逗留の間に顔見知りになった、この界隈で江戸の噂を語り売る、読売であった。
「今日も威勢がいいね」
「いやいや、歳のせいで身体が思う様に跳ばねぇや。早い所弟子とって、この『吉』の字譲りてえわ」
そう言って、この角吉という読売は小さい体躯からは想像できぬ程の笑い声を飛ばした。この男が街中に出れば、どんな法螺話であろうとも、跳んで踊って町人を虜にしてしまうのだ。
「今日はこのまま宿にお帰りかい」
「それなんですがね、角吉さん。吉原へはどう行ったらよいですか」
次郎兵衛からの思わぬ言葉に、角吉は一瞬目を細めた。
「吉原なら浅草寺の裏通って日本堤ですが…この時間からってのは随分お急ぎですかい」
「いやいや。大門前を見物しようというだけですよ。上州から文が届きましてね。近いうちに戻ることになりそうだから」
その言葉に偽りはなかった。あの父親にしては嫁を用意するのに随分手間取っているものだ、と思う程である。

角吉と別れた次郎兵衛は裏道を通って、浅草寺を越えていくことにした。
人と言葉の多い表通りは、次郎兵衛にはあまり心地がよくない。向かう先に対してもだ。

『折角だから吉原にでも寄ったらどうだ』

直接帰れとの便りが来る前に、柿右衛門への義理を通しておこうという腹積もりであった。
いや、義理以前の問題で、次郎兵衛は話の筋が円滑に通らないと自分の所為だと思い込む節があった。帰ったときに「行ってはおらぬ」と言えば、何故どうしての言葉が出てくる。それが彼にとっては億劫なのだ。

とぼとぼと虚空を見つめて歩いていると、ふと下男が「旦那様」と口を開いたのに気付いた。
「何か」
「御武家様のお通りでごぜえます」

細い路地に向こうから供廻りを連れた馬がゆっくりと近付いてきている。次郎兵衛は慌てて隅に寄り軽く頭を下げた。この天下泰平の世、金回りを主として武士も随分と身近になったものだが、田舎者の次郎兵衛にとってはまだまだ侍は畏怖の対象であった。

「俺はこのまま武助の所に行ってくる」
「都筑様の所で御座いまするか。若様、あまりお父上のお耳に入らぬように…」

馬が通り過ぎる時に会話が聞こえた。随分と若い声である。
蹄の音に混じって乾いた音が聞こえた。ふと見ると印籠が落ちている。次郎兵衛は咄嗟に声を出してしまった。

「御武家様、印籠を落としになりました」

これには下男も大いに驚いた。無礼と取られれば何をされても文句は言えぬ。しかしながら、馬は踵を返して次郎兵衛の目の前にやってきた。
「これはかたじけない。礼を言う」
供廻りに拾わせ、快活に喋ると、そのまま若い侍は去っていった。

「随分と若い。どこぞの若様だったのだろうか」
「旦那様、あれはこの付近にお屋敷を構える、羽林様の御嫡男でごぜえますよ。奉行所への出仕もお決まりになっているようですが、御当主様の目を盗んでは随分と奔放に過ごされているとか」
「そうか」
一瞬しか交錯しなかった若武者の力強い眼を思い出して次郎兵衛は思った。できるなら父親というものの難儀について酒でも飲みながら意見を交えたい、と。

それは叶わぬことであるが。

浅草寺裏を通り吉原大門を一目して、次郎兵衛は成る程これは一見の価値があると唸った。
しかしながらその向こうは、怨嗟を隠すように極彩色で飾られているように思われて、近寄りがたいとも感じていた。
「これ。ここで見物がてら飲んでいくから、お前も適当に遊んでお帰り」
下男に金を渡して帰らせると、次郎兵衛は二階から大門が見える宿で晩酌を始めた。
帳が下り、次郎兵衛の酒が深くなって陰鬱になっていく反面、大門から見える仲之町の賑わいは大きくなっていくようだった。

死ねば皆仏、この憂き世で何をなそうとも全くの霧中ではないか。
兄が私で私が兄であったなら、私の生に意味はなかった…いや、今生のままでも意味はあるのか。
だが、あの大門の先は可哀想かな憂き世どころか地獄なのだ。

ふと気付くと次郎兵衛は酔いに任せて突っ伏していた。
見るともう明け方近い。
外に出ると濃い朝霧が掛かっていた。六尺先も霞んで見える程だった。

まるで私の心模様だ。

そんな事を思って歩いているうちに次郎兵衛はどこを歩いているか分からなくなり、いつの間にか大門の内にきているようだった。
これはいけないと、道を探していると。霧の中にぼんやりと人影が見えた。
「もし…」
そう言いかけて次郎兵衛は息を呑んだ。
美しい娘がまるで雲の中を歩くように優雅に歩みを進めている。
どこぞの店のお職であろうか。次郎兵衛が呆気に取られていると、娘の方が此方に気付いたようだった。次郎兵衛は慌てて言葉を捜す。
「わ、私は大門を見物に来た次郎兵衛といいますが、其処許はどこぞの花魁か」

その言葉を聞いて一瞬首を傾げた娘が、まるで朝霧全てを吹き飛ばすような笑顔と声で言い放った。

「お清だよっ!」

「……は?」



其之弐「霧」

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