村田佑輔ブログ◆天佑不待

役者・村田佑輔によるアレやコレやソレ

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願空花火見幕張(ねがいのそらはなみのまくはり)

「どういう事だ、何故未だに兵を起こさぬ?!」
「鼠小僧の英傑の力を得るには今暫く時を要します。それが済めば…」
「そうか」
「それが済めば力を得て、私が天下を取る」
「なに?」

振り向いたときにはその男、水野宗久の鳩尾には深々と刀が突き刺されていた。
「か、金橋…貴様っ…!」
「これまで御苦労様でした。由比横雪をそそのかした責めは貴方に負って頂きましょう。ああそれと、貞江様の事は心配なさらず。私が天下を取った暁には正室に迎えて差し上げますよ」

用意させた無銘を突き刺したまま、中弥はその場を霧丸に任せて後にした。

(漸くだ…漸く私は力を手に入れ天下を取り、そして…)



その先に続く言葉を、中弥は失っていた。





慶安四年八月十日

金橋中弥

此ノ者、天下御政道ニ背キ
幕府転覆ヲ図リ江戸ヲ大火セシ罪
又総目付水野宗久謀殺ノ咎ニテ
市中引キ回シ上斬首申シ渡ス也




伝馬町牢屋敷外処刑場。

中弥は無心で其処に座していた。

「本来は磔となる所だが、引き回しの際に火盗改方頭と一部町民から何故か陳情があってな。流石に切腹は罷りならんが破格の待遇だ」
首切り役人の言葉を聞いて、中弥は浅く息を吐いた。
「火盗改は裁きに関しては権限が弱いですからねぇ…あの顔で甘いことを言う。だからあの人は嫌いなんですよ」


役人が白刃に水を垂らす。
「何か言い残す事は?」
「…花火は?」
「は?」
「今宵は何処かで花火は上がりますか?」
「…この時期だからな。隅田川辺りで上がるとは思うが…」
「そうですか…できればもう一度、見たかったのですがね」

遅すぎた光。
だが中弥にとっては充分だった。

「あとひとつお願いが。やり辛いとは思いますが…この格好で失礼します」

そういうと中弥は、空を見上げたまま首を差し出した。



アメ水の 行方も西の そらなれや

願うかいある 道標せよ







「先生…金橋先生…」

霧丸の言葉で、中弥は「そこ」に至ったと気付いた。

「…随分と懐かしい呼び方をするのですね」
「最早私にとって貴方様は、豊臣残党軍の軍師でもなければ主君でもありません。唯の、師匠でございます」
「そうですか。君にも随分と苦労をかけましたね。ずっと待っていたのですか」
「どこまでもお供すると申し上げましたから…ご案内致します」

そう言って霧丸は歩き出した。中弥はついて行く。

そうしてたどり着いた先に、


「よ。久しいなセンセ」

彼女は居た。

「お久し振りです天呼さん。大分お待たせしてしまいましたね」
「いやあ、ちょっとアンタの事が気掛かりでな、閻魔様に無理言って居座っちまった」

あの時と同じように、カカカと笑って天呼は座った。中弥にとって、永らく忘れていて、それでいて…焦がれた笑顔だった。

「それでセンセ、アンタは何がしたいんだい?」
「そうですねぇ…彼らを集め直して地獄で天下取りも悪くないですが…」

中弥も、どかっと、其処に座った。

「一献、お付き合い頂きたいですね。あの夜のように…」

そう言って中弥は己が持っていた、くすんだ山吹色の扇子を差し出した。

「貴方の正義、永らくお借りしていました。それと…」

肩に掛けていた着物を差し出す。

「ボロボロになってしまいましたが…着て下さい。きっと…美しい貴女に良く似合う」
「へへ…生きてる間に言えってんだバカヤロウ」

天呼は頬を薄く紅色に染めながら中弥を小突いた。

「聞いて頂けますか?貴女によく似た、私に興味の無い娘の話を」
「興味深いねぇ…じっくり聞いてやるよ。何せ、時間はたっぷりあるんだからよ!」





     終
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| 舞台 | 21:58 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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アメ乃憂世画 ~異聞・歓喜風体~・急

中弥がその場に姿を現した頃には、寅の初刻を過ぎていた。

近くに住んでいた末弟が、騒ぎを聞きつけ大急ぎで中弥を呼びに屋敷へと走って来たのである。
刻限もあってか野次馬は殆どいなかったが、既に役人たちが現場を押さえていた。
「何だお前、此処から先は入れねぇぞ」
岡っ引きが中弥の前に立ち塞がった。
「申し訳ありません、もしかしたら知り合いが…」
ここで問答している余裕は無かった。押し通る覚悟を決めたとき、
「おう彦十、大将が出張って来るまで一寸ある。通して見せてやんな」
奥に居た大柄の同心らしき男が声を上げた。
どうやらその男が立っている付近が現場らしかった。中弥は礼を言って駆け寄る。そして…

筵を払ったそこに在ったのは

天呼だった。

白い柔肌につけられた無数の刀傷は、どの順にどう斬られたか、使い手がいかに弄びながら斬ったか、中弥の力量を持ってすれば手に取るように解った。
更に天呼の身体は傷だけではなく、酷く虐め抜かれた痕があった。

「どうだい旦那。仏さん、知ってる顔だったかい?」
同心らしき男が気配ってか、少し距離を置いて声を掛けた。
「……いえ、知人の娘かと思ったのですが、全く知らない赤の他人でした。失礼しました」
そう言って中弥は現場を離れた。
立ち上がり際に、そっと天呼が握り締めていた扇子を拾って。

“コイツはあたいにとっての十手みたいなもんさ”

(ああ、そうか…天呼さん貴方、守らなければならない、力無き者の側だったんですね)

豊臣の天下を失い、長宗我部の家を失い、母を失いそして…
全て己に力があれば、総てを抱えて尚ねじ伏せる力があれば、


私は何も失わずに、救う事ができたのに


「先生、そこの角にこれが…」
弟子が差し出したのは、中弥が天呼に渡した風呂敷包みであった。中にあった白と草色の着物は所々、天呼の血で赤銅色に染まっていた。
荷物がここに置かれているという事は、拐かされた訳では無い。あの位置まで必死に抵抗し、戦った、その証なのだ。

(天呼さん、貴方の十手、お借りしますよ)

風呂敷から着物を引き抜く。布が大きく靡き「ばさっ」と大きな音をさせると、中弥はその着物を肩に羽織った。

「…明け六つの鐘の音と共に全てを忘れる覚悟はありますか?」
弟子が中弥を見る。瞳の奥の虚(うろ)。その深さに汗が一筋流れた。しかし彼は決意を以って膝をつく。
「私は、何処までも先生と共に参ります」
最後の弟子のその言葉を聞き、中弥は顔の前で、くすんだ山吹色の扇子をパチンと鳴らした。

「ならば付いて来い、霧丸。私が…俺が、阿鼻地獄の作り方を教えてやる」





「全くもって想定外だ。よもやあの様な邪魔が入るとは」
改易によって空き家となった大名屋敷、そこに隠れ家を構えていた由比横雪は苛立ちを露わに畳を叩いた。
「先生、機会は必ずまた訪れます。今はご辛抱を」
奥村七衛門をはじめとする張孔塾生たちが横雪をなだめる。

そこから障子一枚隔てた一室で、その様子を伺う者が有った。
「奥方様、此処が引き際かと」
「そうね。徳川崩しの尖兵として使い所があるやもと目を掛けてやったが…この様な御粗末な絵空を描くならば先は見えている」
「では、宗久様に始末の御願いを?」
付き人にそう言われた彼女は「ふん」と鼻で笑い鋭い目を光らせた。
「あの様な体たらくでは手を下すまでもない。気取られぬうちに屋敷へ戻るわよ」



それから四半刻後。

隠れ家に二つの影が浮かんだ。
沈みかけの紅月がそれを照らす。
「か、金橋!」
見張りの塾生が声を上げるのと、その者の首が宙に浮くのと、中弥の刀が鞘に納まるのは、ほぼ同時であった。

「横雪先生大変です!金橋が屋敷に!」
塾生が慌てふためき奥の間に駆け込んで来た。
横雪は色を失い、奥村らは拵えを腰に押し込み外に出ようとした。
だが、影はすぐ側の廊下に伸びていた。


朝靄を引き連れて、金橋中弥がやって来た。


その姿を認めた塾生たちは直ぐ様に柄に手を掛け、刀を抜き放ち、晴眼・八相・下段・脇と其々構え…ようとした。

その間に、中弥の刃は二度、鞘から離れた。
抜きざまに下から一人目の小手を斬り落とし、返す刀で二人目の頸を袈裟斬りで裂くと、そのまま鯉口に吸い込まれる。相手方が怯んだ所に再び抜刀し、三人目の胴を薙ぐ。そのまま遠心力を利用して身を屈めながら回転し、四人目の右脚を斬った。
「なっ…!」
一瞬にして赤い飛沫が現れ、畳は血の海となった。
ここで漸く塾生たちが攻撃に転じた。一人が天井を避けて低く斬り掛かる。が、中弥は抜き打ってその刀を叩き落とし首を刎ねた。そして背後に回り斬り込もうとした相手を一瞥もくれず、左片手平突きで突き刺した。
三回、中弥の刀の鍔が鳴った頃には、立っているのは中弥と奥村、そして横雪だけとなっていた。

「な、何故…」
「何故?普段の行いの結果が巡ってきたという事ですよ奥村君」
中弥は扇子を取り出した。天呼の扇子を、その骨の三つまで開いた。
「彼女はこの様に扇を握っていましたよ」
「三…?!弥生…やよい、亭」
「居処は直ぐに割れました。それにしても、穴熊を組んでる途中で玉を上がるなど、愚策もいいところでしたね。ああそうだ奥村君。今、私の右小手を狙っているのであれば、これ以上踏み込まない方が良いですよ」
奥村は虚をつかれた。己の考えが読まれていたのもそうだが、何よりも眼前に居るかつての師、

嗤っている。

浮世の全てを嘲笑する様に、力無く口を吊り上げた笑みで。

これが、あの金橋中弥か

「おのれ…おのれぇ!」
奥村が下段構えから下段晴眼に変化し地を蹴った。
しかし、踏み込んだ足がぬるりと滑った。
(なっ…血が!?)
足元の血溜まりと畳の目の所為で足を取られ、奥村は前のめりに倒れ込んだ。
はっと上体を起こすと目の前に中弥の袴があった。

「だから言ったんですよ。これ以上踏み込むな、と」

そう静かに言うと中弥は拾っていた、折れた障子の格子木を奥村の首筋に思い切り突き立てた。
屋敷に絶叫が響き渡る。虫の様に這いずりながら徐々に動きが鈍くなっていく奥村を見下げながら、中弥は小さく吐き捨てた。
「傷痕と其々刀を見れば、誰が主な下手人かすぐ分かる。貴様は刀で斬り殺す価値すらない」





外では、既に空が白み始めていた。
青白い光が部屋に差し込む。そこに対峙するのは、二人。

軍学者、由比横雪。

そして、名を二つ持ちながら、何物も持ち得なかった男。

「どうしてだ…金橋、それだけの力を持っていながら何故!」
「力?こんなものは只の技術に過ぎませんよ。私には何の力も有りません。だから守れなかったそれだけです。故に私はこれから力を手に入れる。誰にも負けぬ力だ…誰をも救える力だ」

最早、妄執に近かった。中弥は己の掌から零れ落ちていったものたちが、自分にとってどれだけ大事だったか気付けぬうちに、その願いは祈りになり、そして叫びと成り果てたのだ。

「目的は同じ筈だ。何故私の邪魔をする」
「貴方の目的は私にとって手段でしかありませんよ。そして由比先生、貴方が天下を取れる英傑ならば、今の私程度の邪魔、乗り越えられる位の力がなければねぇ」

中弥が不気味に嗤いながら、ゆっくりと血の海を渡る。

「尤も、私ならもっと上手くやる。周到に緻密に丁寧に迅速に確実に手に入れる。ああそれと、一つ言い忘れていました」

血脂にまみれた手で中弥が髪をかき上げ総髪を作る。横雪はその時初めて彼の瞳を見た。眼光は鋭さを増し、しかしその奥は、どこまでもどこまでも昏かった。

「傷口と照らし合わせていない差料はあと一本…天呼さんの背中を最初に斬ったのは、貴方ですよね?」
瞳の虚に引き込まれ、横雪はまるで金縛りにあったかの様に動けなかった。その間に中弥は横雪の目の前に立っていた。



「由比横雪…貴様ここから生きて帰れると思うなよ」






間もなく卯の刻明け六つ。

屋敷の中は血の匂いが立ち込めていた。
「金橋先生、外は全て片付きました…!?っと!」
小走りで駆け込んできた霧丸は、足元に転がっている物に躓きそうになり思わず飛び退いた。
よく見ると転がっていたのは由比横雪の首であった。

「ああ、御苦労様です。此方も終わりました」
中弥は血を拭き取った懐紙を投げ捨てた。赤と白が雪の様に部屋に舞い散る。
「先生、それが…塾にいた武家の女が見当たりません。あの者は我々の顔を見ております。如何致しましょうか」
「成る程…由比は既に見限られていましたか…問題ないでしょう。敵味方どちらに転がろうとも、お互い利用できるという事でしょうね。それにまあ…」

そこで明け六つの鐘が鳴った。

朝の始まりを告げる音だ。

同時に…夜の終わりを告げる音であった。


「今の私を見ても、誰も気付かないでしょうねぇ…はははははは」

そのとき中弥の顔に飛んでいた返り血が二筋、垂れ落ちた。
霧丸にはそれが、中弥の目から零れ落ちたものの様に見えた。




外は、雨が静かに降り始めていた。

天が呼んだ明るい娘の魂が、友の心の死を偲んで流した涙のような雨だった。




    「アメ乃憂世画 ~異聞・歓喜風体~ 」終







「これがあの鼠小僧…この様な小娘だったとは驚きだ」
髪を掴み、顔を引き寄せる。そのとき金橋は初めて弁天の素顔を間近に見た。
刹那、

笑顔が明るい誰かの面影を見た気がした。

しかし金橋は、思い出さなかった。

あの頃の総てを忘れていた。

彼が其れを取り戻すのは暫く後程。
あのとき見た紅い月の様に大きく明るい、花火を彼らと見た時であった。

| 舞台 | 14:05 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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アメ乃憂世画 ~異聞・歓喜風体~・弐/破

由比横雪(ゆいおうせつ)

中弥がその名を聞いたのは、天呼との出逢いから暫く経った後であった。
やよい亭での喧嘩騒ぎがあってから、中弥の道場はすっかり静かになっていた。常に顔を出していたのは、中弥に助けを乞いにやって来たあの末弟位のものであった。
来る者拒まず何とやら、と中弥は半ば諦めていたのだが、末弟の話を聞くとどうやらそうではないらしい。
「兄弟子達はあれから己の行動を恥じ、先生から教わった力を正しく使うべく、塾に通っているらしいのです」
「塾?」
あまりの意外な言葉に、中弥は思わず声を上げた。
「由比横雪という軍学者が神田連雀町にて開いている張孔塾でございます先生。大層評判で諸大名の家臣や旗本も多く抱えているとか」
弟子のその言葉に中弥の方は頭を抱えた。
道場を出て行った者ならばそのまま放っておけばよいが、あの人数が籍を置いたまま他所様に世話になっていると分かれば、その由比横雪なる者に挨拶の一つもせぬ事には義理が立たぬ。
中弥は後日、伊兵衛に菓子を見繕って貰った上で、末弟を伴い神田へと赴いた。

背負子を担いで品を運びそのまま店を出す連尺衆が多いことからその名が付けられた神田連雀(尺)町は、往来盛んにして賑わいある町であった。
その外れにある長屋の一角に、張孔塾の名があった。張子房と孔明の二字を取るとは大それた看板だ。そう思いながら中弥はその戸を潜ろうとした。
「ここに何か御用?」
背後から不意に声を掛けられ、中弥は思わず左手を腰の物に添えかけた。それ程までに、声の主に気配がなかったのである。
「…失礼、ここ…張孔塾のお弟子さんでしょうか」
「あらごめんなさい私、一見さんなの。みんな裏の庭先から出入りしてるから、そっち回った方が良いわよ」
「それはご丁寧にありがとうございます」
中弥たちが一礼して去ろうとすると、相手が顔をずいと近付けまるで品定めするかの様に中弥を見た。浪人風のその男はよく見ると薄く紅を引いている。
「貴方…中の連中と違ってすっごく良いわぁ…また会いましょうねぇ」
そう言ってその男は手にしていた赤い拵を肩に提げ、足取り軽やかに去って行った。

珍妙な侍を見送った中弥と弟子は、中間に取り次ぎ裏口から長屋の中に通された。
成程、そこまで広くない部屋に所狭しと人が座り、熱心に耳を傾け筆を執っている。その上座中央で声を響かせているのが、
「あれが…由比横雪」
その男は物腰柔らかく、なれど剛胆さを持ち合わせている事を窺わせる顔つきであった。ふと中弥が視線をずらすと横雪の一番近くで大きく頷きながら話を聞いている女人がいた。
「女も軍学を学べるのですか」
中弥が案内役の中間に訊く。
「あの方はいずこかの御武家様の細君と伺っております。噂では西方で落ちた何処ぞの武将の御息女だとか」
「ほう…」
末弟が不躾にじろじろと彼女を見たが、当の本人は話に夢中で気付いていない。
「まあ、そちらよりも横雪先生に言い寄ってとり入る魂胆だろうって噂の方が、有名ですけどね」
そう言って中間は奥に退いて行った。中弥も弟子に倣ってよくよく見てみると女性にしては目に鋭さを宿した彼女は、それが故に本人を強く、美しく見せていた。
だが彼女を見遣っていた中弥は其れ故己に向けられた視線に気付けなかった。
「そこの御方、宜しければ座って聴いていかれては如何かな?」
視線を戻すと横雪と目が合った。
「これは失礼を致しました。私、御茶ノ水で剣術道場をしております金橋中弥と申します。弟子がお世話になっていると聞き及び一目御挨拶をと」
中弥が見遣ると末弟は、持っていた風呂敷包みを恭しく差し出した。だがそれを受け取ったのは横雪の傍にいた例の女であった。
「まあこれは御丁寧に。宜しければ貴方も横雪様の素晴らしい御講話をお聞きになっていらして」
中弥は「いえ私はこれにて」と踵を返そうとしたが、それよりも早く横雪が中弥の目の前に進み出た。
「丁度良い。金橋殿、武の業を束ねる方として貴方の意見を是非伺いたい」
歳は中弥と同じか少し若い。しかしその張りのある声はその場に居る塾生の多さを受けてか彼の自信を伺わせた。
「東照神君亡き後も幕府は強い力で天下泰平を謳ってはいますが、現実この江戸には浪人が溢れ、再仕官の道も閉ざされています。彼らを救わずして真の平和とは言えません」
横雪は饒舌に語った。その場に居る誰しもがその言葉に深く頷いてる。
「同感です。しかしながら不遇の怨嗟が満ちているとはいえ昨今の狼藉は少々目に余ります。彼らを治め救うには…」
そう言った中弥は、次の言葉を飲み込んだ。

(救うには…私には力が無い)

「…やはり浪人たちに自制を促し、活計の道を探してやるのが良いでしょうか」
何とか言葉を探して紡いだが、その言葉を聞いて勢い良く立ち上がる者がいた。
「それでは遅いのです!」
「貴方は…」
それは、やよい亭で酔いに任せて天呼と言い合っていた門下生である。よくよく見るとその一角は中弥が見た事のある者ばかりであった。
「弟子の奥村七衛門にございます。金橋先生、最早その様な悠長な事を言ってはいられぬのです!」
興奮している奥村を、横雪は手で制して続けた。
「既に幕府への不満は抑え切れぬ処まできているという事ですよ金橋殿」
「…では由比先生は如何様にするのが得策と御思いか」
「もう徳川の手で浪人たちを救う事は期待できません。逆に彼らを時代の中央に戻します。帝を擁し勅命を受け、全国の浪人たちを味方に付けて今の枠組を我らの手で変えるのです」
その時、その場に居た者たちから歓声が上がった。その熱気の只中にいた中弥はえもいわれぬ不気味さを感じていた。
「金橋殿、是非貴方の力を貸して頂きたい。貴方の剣の腕は彼等から聞き及んでいます。金橋殿の力があれば、浪人救済の実現はより確かなものとなる」

(力無き者の為に、力ってのは必要なのさ)

あの夜の、あの言葉が、中弥の脳裏をよぎった。

「買い被り過ぎですよ。私は…身の回りの者も救う事が出来ない未熟者です。現に、逸る若者たちを止める事すら出来ないのですからね」
「!?」
騒めく聴衆を背にして、中弥は歩き始めた。その中奥村たち呼び止める声も混じったが、中弥は振り返る事なくこう続けた。
「奥村君、君たちはもう道場に来なくて結構です。由比先生の教えを、弱き者を救う為に使いなさい…由比先生。天皇を頂き勅令を以って幕府に替わる…“いつか”、“誰か”がそれをやる。数年後か数百年後か、きっとやるでしょう。だがそれは、今、貴方がたではない。私はそう思っております」




月が、いつもより大きくそして赤く輝いていた。
落胆する末弟をなだめ帰し、佐野伊兵衛の屋敷へ礼を兼ねて訪れた後、中弥は月明かりを背に受け、ゆっくりと帰路を歩いていた。
橋の欄干から神田川を臨む。城下町民を幾度となく苦しめたこの川も、度重なる普請の甲斐あってこの時期は穏やかに流れていた。
(彼等を哀れと思うのは、私が真の侍ではないからか)
水面で歪に揺れる月を見ながら、中弥は思いを馳せた。
己はこの川の歪んだ月と同じだ。母親から長宗我部の庶子と言われ続けながらも、関ヶ原や大坂の役を武士として経ていない中弥は、己という意味を帰し結ぶ機会を失っていた。中弥にとって張孔塾にいた彼等の血気は少なからず眩しさを感じるものであった。だが…
「あの者たちの企みは早晩露見し失敗するだろう」
準備も機会も後盾も、何より総てを束ね行使する力が足りない。そして、
「彼等を止める力すら、今の私には無い」
番所に告げたとして、信じて貰えるかは不確かである。更に言えば、己の居るべき場所を失い、迷う彼等浪人たちを罪人として断ずる事に中弥は躊躇いを覚えていたのだ。
「念の為に、それらしい文でも奉行所に投げ入れますか…」
そう呟いて再び歩き出そうとすると、

「独りで何喋ってンだよ気味悪い」

不意に言葉を投げかけられ、中弥はゆっくりと向き直った。
「よ。久しいなセンセ」
「今晩は天呼さん。おなごの一人歩きは危ないですよ」
中弥が力無く微笑むと、天呼はムッと眉をひそめた。
「女扱いすんじゃねえよ。あたいが見廻らずに誰が江戸を守るのさ」
「改方でしょう。この辺りでも最近威勢の良い方々が活躍しているじゃありませんか」
「口が減らねーなぁ…一体どうした?」
天呼が「よっと」と橋の欄干に飛び乗り腰掛ける。一方中弥は彼女を見ずに再び川を見つめる。
流れが一瞬止まり、映る月の歪みが直った様に見えた。
「私は、貴方たちの様に真っ直ぐな人が、羨ましいのかもしれませんね」
川は再び風に吹かれ穏やかに波立った。
「……何言ってんのかよく分かんねぇけど。あたいは言いたいこと言って、したい事するだけさ」
思わず中弥は振り向く。そこで二人は目が合った。
天呼は楽も無く哀も無く、凪のように静かに中弥を見ていた。

「アンタは本当は、何がしたいんだ」

もしあのとき、
狂いゆく母を只絶望の瞳で見るのではなく

「私は盛澄ではありません。中弥とお呼び下さい」
「母上、中弥がきっと母上を御支えしてみせます。共に生きて参りましょう」

そう言えれば良かった。
そう言いたかったのだ。
梁からぶら下がる母を見た時、中弥は泣かなかった。

私は…泣きたかったのか。

「ひとつ、片が付きました。天呼さん、これを」
中弥は手にしていた風呂敷包みを天呼に差し出した。
「ん?」
「先程、絹商いをしている友人から頂いたのですが、私は今所帯をもっておりませんので」
受け取った天呼が包みの端を捲ると、中に女用の着物が畳まれていた。
「センセあんた…あたいを口説いてんのか?」
「気持ち悪い事言わないで下さい只の御礼ですよ」
「礼?あたい何もしてないぞ。それに分かってんだろ?あたいこういうのは趣味じゃねえんだよ」
天呼が突き返そうとするが、中弥は袖の中に腕を仕舞ってしまう。
「気が向いたら袖を通してみて下さい。きっと…読売の良いネタになりますよ」
中弥がそう言うと、一寸間をあけて天呼が江戸の町に響くような豪快な笑い声を上げた。
「カカカ、アンタみたいに興味深い野郎は初めてさ」
「こちらも、他人にそこまで興味を持たれたのは初めてですよ」

橋の上、夜の闇に二人の姿は包まれ周りからは見えず、月明かりだけが彼らの輪郭を型取っていた。





子の刻を、既に回っていた。

天呼は風呂敷包みを小脇に抱えて下駄を鳴らしていた。くすんだ山吹色の扇子を肩に当てて調子を取りながら鼻歌を歌っている。
「おもしれぇセンセーだなぁ…ったく、趣味じゃねえって言ってんのによ」
そう言いながら天呼は二重に結ばれた風呂敷の、外側の端を解き、軽く中の着物を広げてみた。
白地に草色が所々に染め抜かれた、優しい色合いの柄であった。この着物を中弥に譲った人物は、彼をこのように評したのだろうか。
「まあ…着てやらねーこともねぇけど」
着物を雑に丸め、風呂敷に突っ込んだ天呼の口元には笑みがこぼれていた。そのまま再び鼻歌を歌おうとした。
そのとき
「?」
先の路地を、人影が通り過ぎた。その影の動きと速さに天呼は違和感を感じた。明らかに身を隠す為の移動の仕方だったのだ。天呼は胸騒ぎを覚え、咄嗟に己も気配を殺し影を追いかけた。

曲がり角に身を潜め、そっと顔を出す。人影は数人。油問屋の前でその身を寄せていた。
「各々、大事無いか」
「応、鶏鳴の夜八つに合わせて江戸市中の油、材木、廻船問屋に火を放つ。混乱に乗じて我々が由比先生を千代田の城にお連れするのだ」
風に乗って流れてきた言葉を聞いて、天呼は愕然とした。
扇子を持つ手に力を入れる。影たちの言葉が真実であるならば、ここで騒ぎを起こせば少なくとも他の問屋への火付けは躊躇する筈である。彼らの計画が大きなものであるならば尚更だ。
(奉行所の旦那らに報せてる暇はねえ…!)
飛び出して啖呵を切ろうとした刹那。


どん


天呼は背中に衝撃を受けた。勢い余って道の真中に踊り出る。そして膝から崩れ落ちた。
(な、何だ…!?)
直後背中に熱を帯びた激痛が走る。そこで初めて天呼は、己が背後から斬りつけられたと解った。
「こいつ、話を聞いていたぞ」
背後の声に影が動く。そこで漸く月明かりが影を照らした。
「手前ぇ…あン時の酔っ払いじゃねえか」
苦悶の表情で天呼が見上げたその先に居たのは、奥村七衛門と中弥の元門下生たちであった。
「知り合いか?」
「いえ先生。只こいつ、先せ…金橋と顔見知りの女です」
「それは少々まずい…念の為に計画を一度中断する。各隊に報せを。後は任せたぞ」

そう言って天呼を斬った男…由比横雪は頭巾を被りその場を離れようとした。

「おい待てよ…悪党ども」

「…悪党?我々が?」
天呼の声に横雪が振り向く。頭巾から覗くその眼は大きく開かれ血走っていた。
「ああそうさクソボケ小悪党め…火付けなんて、このあたいが絶対許さねぇぞ!」
脂汗を額に浮かべて天呼が吐き捨てる。それに応じて周りの男たちは刀を抜いた。

「ああそういえば、金橋には先刻皆の前で恥をかかされたな」
「先生、我々もこの餓鬼に愚弄されたのです」
「成る程…小娘、私たちへのツケ、此処で払って貰おうか」

男たちが鈍い銀光を携えやって来る。天呼は風呂敷をそっと地面に置くと、歯を食いしばって立ち上がった。


(わりぃな中弥…着物の御披露目は、また今度になりそうだ…)


再び扇子を強く握り、天呼は吠えた。



月が、いつもより紅く輝いていた。

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アメ乃憂世画 ~異聞・歓喜風体~・壱/破

その名を聞いた時、天を弁えぬ不遜な名前だと思った。


「ありゃあ人形町あたりで根無し草をやってる、天呼って娘でさぁ」

「てんこ?」


翌日、伊兵衛の屋敷を訪ねた中弥は中間からその名を聞いた。

「男勝りが興じて、八丁堀の旦那衆の手伝い紛いをしてると界隈じゃ有名なんですよ」

「おなごが岡っ引きの真似事を…?」

「ええ金橋様。それこそ犬探しから刃傷沙汰まで、でさ」


伊兵衛の屋敷を後にして帰路を辿りながら、金橋は昨夜の出来事を反芻していた。

天呼という奇天烈な娘との出会いにも驚いたが、中弥が一番驚いたのは己の腹の中であった。


(どんな悪党だって有無を言わさず殺すってのは頂けないねぇ)


確かにあのとき中弥は防衛や反射などではなく、仕方なしともスリへの怒りでもなく、ただ単に刃を向けられたという理由だけで、スリを斬り殺すことを自動的に選択していた。

自分の動機に首を捻っていると、聞き慣れた声と共に中弥のもとに駆け寄ってくる足音があった。

「先生!先生!」

振り向いて見てみると、最近中弥の道場に入門した年若い門弟である。

「どうしましたか?」

「先の小料理屋で兄弟子達が町人相手に喧嘩を!」


声を聞くや否や中弥は駆け出していた。


多くの道場と同じく、中弥も弟子達に私闘を禁じていた。今までは多少の小競り合いは江戸の華とも思えたが、今は時世がそれを許さない。大坂の戦い以降多くの大名が改易や厳封、転封の処分を受け、町には浪人が溢れていた。遣り場のない力と、徳川への怨みや不満が江戸という釜の中で煮立っていた。一度吹き零れれば取り返しはつかないだろう。


弟子に連れられて暖簾をくぐるとそこでは既に怒号が飛び交っていた。

手前側にいるのは確かに道場に出入りしている見覚えのある若い衆である。しかし中弥の目に最初に留まったのは、

「貴方は…確か」

町人の先頭に立って弟子達に怒鳴り声を張り上げていたのは、天呼だったのである。

「あん?また会ったな。アンタが此奴らの親分かい?随分と出来の悪い子分を引き連れてるじゃないか」

おそらく彼女は最初仲裁に入り途中で町人側に肩入れしたのであろう。

「先生!こいつら不敬を働き、挙句この小娘は我々を愚弄したのですよ!」

そう言い寄って来た男からは酒の匂いが漂い、足元には徳利と盃が転がっていた。

「笑わせるねぇ!偉そうに振舞って他人様に迷惑かけるような輩をどうやって敬えってんだい!」

「そうだそうだ」と後ろから声が上げる。店内を見ると他には店の主人かその妻であろうか盆を抱えた人の良さそうな女性のみである。彼女は困った顔を浮かべていたが特段慌てたり怯える様子はなかった。


「おのれ言わせておけば!」

そう言い放ち弟子の何人かの右手が左腰に回るのと、中弥が店の外にまで響く様な大声を上げたのは同時であった。

「そこまでです!……天呼さん、背中の声を代表する者同士ここは二人で解決しませんか」

「へえ、あたいとサシでやろうってか。興味があるねぇ、表出な」

天呼は不敵な笑みを浮かべながら暖簾を払って行った。

「そういうことで、ここは我々が引き受けました。皆、お開きにしてください」

「しかし先生…」

そう言いかけて弟子達は言葉を失った。中弥の目が一瞬、スリと対峙した時のそれと同じに変貌したからである。

「御迷惑をお掛けしました。それとも…差し出がましい真似でしたか?」

去り際、中弥は女主人に頭を下げた。

「はい?いえ、有難うございました。またどうぞ」

言葉の意味が分かりかねたのか、彼女は困り顔のまま笑みを作り店を出て行く中弥に頭を下げた。


(構えの初動より速く、盆に隠していた箸を逆手に持った…あの女も、飯屋にしては厄介な手合いですね)


天呼の背中を追う中弥が一瞬振り返る。暖簾は風に吹かれ翻っていたが、「やよい」の三文字だけは見てとることができた。


それから陽が落ちて夜。


「……で、何ゆえ私たちはこんな所でこんな事をしているのでしょうか」

日本橋葺屋町。江戸の中では僻地で、海岸沿いには葦が茂り、そこから「よし原」と呼ばれていたその地は、戦後処理に追われていた幕府がどさくさ紛れに唯一公認した「遊郭」であった。

その一角、「たちばな」という見世の一室で中弥は遊女に酒を振舞われていた。上座に相対するは、天呼。

「はぁん?アンタがあたいとサシでやろうって言ったんじゃねぇか」

天呼も遊女から酒を注がれ大杯を豪快に傾けていた。

「差し合い呑み比べを提案したつもりはありませんが…」

「そう言うなよ。アンタが苦ぇ立場であの場を買って出たのは分かってんだ。それとも…本当にあたいと果たし合いたかったかい?」

「…一本取られましたね。ここは私持ちという事で、天呼さんには手打ちにして頂きましょうか」

「おいちょっと、アンタどうしてあたいの名前知ってんのさ」

「貴方、有名人ですよ。女御用聞きの天呼さん」

中弥がそう言うと天呼はカカカと笑った。

「アンタの名前は?」

「金橋中弥です」

「金橋センセ、アンタ強いかい?」

質問の意図は分からなかったが、今更腕比べも無かろうと、中弥は少し頭を傾けた。

「…どうでしょう。剣では多少腕に覚えはありますが…それが強いという事に繋がるかは分かりませんね」

「興味深い答えだねぇ。力無き者の為に力ってのは必要なのさ。その力ってのは腕っぷしだけじゃない」

天呼のその言葉に、中弥の胸に鈍い痛みが走った。


(もりずみさま…もりずみさま…)

あのとき…己に彼女が言うような強さ、力があったなら、崩れゆく母を支える事が出来たのであろうか。


「それは…御政道や奉行所ではなく、貴方が為すべき事なのですか?」

震えそうになる声を堪え、盃を煽った後に中弥は問うた。するとそれまで眉を上げ、勝気な顔を崩さなかった天呼は、一瞬母親の様な柔らかな表情を浮かべて応えた。


「正義や道理を通すのに、資格が要るのかい?」


言葉を失っている中弥をよそに、天呼は腰に差していた舞扇子を拡げて仰いだ。古びたその扇子には柄が無く、山吹色に鈍く光っていた。


「コイツはあたいにとっての十手みたいなもんさ。世も末だなんて嘆く前に、手前ェの信じる力ってヤツを求めても悪かねぇだろう?」


パチンと扇子を閉じて中弥を指す。二人は奇妙にフフフと嗤い、静かに盃を交わした。


それから見世を出るまでどれ程の時を過ごしたのか、中弥はよく覚えていなかった。特に大した言葉は交わさず、ひたすら天呼と酒を飲んだ。



外に出た二人の顔を、風が優しく撫でた。普段なら肌寒く感じるこの季節の風も、火照った身体には心地良かった。

これ程したたかに酔ったのは生まれて初めてだったが、思考や足取りが然程乱れていない事に中弥は安堵した。

「吉野サーン、まった来るよー」

見送りに手を振る天呼へ向けて、中弥は後ろから声をかけた。

「今後、女御用聞きさんに目を付けられないように注意しますよ」

「おいおいセンセ、先刻で手打ちだそんな呼び方は止してくれ」

バツの悪そうな表情を浮かべる天呼がそのとき初めて年相応の娘に見えて、中弥は思わず笑ってしまった。

「それはお互い様ですよ、天呼さん」

「ハハハ!今度はコッチが一本取られたな」


天呼の豪快な笑い声が夜のよし原に響いた。


「じゃあな! 中弥」



金橋中弥は星も見えぬ曇天の夜空に、月より輝く太陽を見た気がした。

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≫ EDIT

アメ乃憂世画 ~異聞・歓喜風体~・序

金橋中弥には名が二つあった。


幼子の様に道の石を蹴って粗相などすると、母が「これ、中弥」と笑いながら咎めたものだった。

中弥はそのように呼ばれるのが好きだった。

しかし、家で母と二人きりになると母は恭しく頭を垂れ指をつき中弥の事を「盛澄様、もりずみさま」と呼ぶのである。

中弥はそのように呼ばれると母が遠くに感じられて途端に悲しくなったのである。


彼には父親がおらず、母は親類を頼り上野国に流れた。

その頃から母は寝床で中弥を抱きながら、

「盛澄様、貴方は長宗我部の子。いずれ盛親様が御迎えに来て下さいます。その時は太閤殿下の御為存分に武者働きするのですよ」

と説いていたのだ。

中弥は己が長宗我部の庶子であるかについては懐疑的であった。親類に至っては男に捨てられ気が触れて妄言を吐いているとすら思われていたのだ。

そして実際に母は正気を失っていった。

一向に長宗我部の使者は現れず、猜疑と憐憫の目に囲まれながら、それでも息子が盛親の直系であると呪いにも似た願いを託し、母は逝った。

中弥は己が豊臣の家臣であるとも、武士であるとも分からぬまま、大坂の陣は終結し、


乱世は終わった。



徳川の世になって以降、中弥は剣術・兵法の覚えめでたく江戸住みを許された。親族からしても体良く厄介払いができたのであろうと中弥は少し肩の荷が下りた気分であった。



「伊兵衛さん、ここら辺りはどうでしょうね」

前を歩く男に中弥は声を掛けた。

「ここですか?いやあここら辺はねぇ」

伊兵衛と呼ばれた男は少し言い淀んだ。

彼は江戸にて初めて中弥と懇意になった男で、中弥と同じく上州の出で絹商いをしているという。その伊兵衛の世話で此度中弥は江戸で剣術道場を開く事に相成ったのだ。

「何か都合が悪いですか」

「ここらには既に道場が一つ有りましてね。何でも二刀を使う凄腕の道場主で門弟も多く賑わっているとか」

「成る程、それは分が悪い」

中弥は笑ってそう言った。

「なに、この佐野伊兵衛。きっと穴場を見つけてみせますよ。御茶ノ水まで足を延ばしてみましょう」


結局中弥は伊兵衛の尽力あって御茶ノ水で道場を開いた。物腰の柔らかい教え方と鋭い刀が評判を呼び、数人の弟子を抱える事が出来た。


この日中弥は門弟を従え、伊兵衛に御礼の宴を振舞っていた。

「いやあ金橋殿、此度は馳走になりました」

「こちらこそ。受けた御恩を思えば御礼し足りないくらいです」

陽も落ちた浅草の街を、談笑しながら中弥は伊兵衛を送っていた。

夜も賑わいの絶えぬ街ではあったが、その中でも一際大きな怒声が響いたのを中弥は聞き逃さなかった。

「おいっ!そいつを止めろ!」

声の方を振り返ると、男がこちらに向かって走って来ている。手には女物の財布を手にしていた。

避けるのも億劫だと、中弥は男の行く手を遮った。

「なんだ手前ぇ、邪魔しようってか!」

「止めろと言われたから止めているだけですが…成る程スリですか。感心しませんね」

この時勢の江戸にはよくある手合いだ。中弥は辟易した。何より彼の心を波立たせるのは、恐らくこの男も元は武士であり、徳川の改革により食い扶持を失った者であるという事だ。

「退けえ!」

男が匕首を抜き中弥に斬りかかってきた。武の心得があろうともこのように荒れた剣筋では見切る事すら必要ない。中弥は感情や思考が沸き起こる前に鯉口を切っていた。


そのとき、


「馬っ鹿野郎ー!」

先程の怒声の主が、中弥もろともスリを蹴り飛ばした。

「?!?!」

積まれた桶屋の桶に頭から突っ込み、中弥は一瞬何が起きたのか分からなかった。スリに至っては蹴りをまともに食らい気絶している始末である。

「お前さん、コイツ斬ろうとしただろう。どんな悪党だって有無を言わさず殺すってのは頂けないねぇ」

「…お、女子?」

中弥が見上げると目の前に立っているのは男の格好をした年若い娘子だった。ボサボサの髪の毛を思い切り逆立たせ、毛皮と男着物を纏ったその様は、さながら後世歌舞伎役者が演じる石川五右衛門の様であった。


「アンタのその冷やっこい瞳、興味があるねぇ!」




その娘が威勢良く啖呵を切ったとき、気付けば雨が降っていた。





金橋中弥には出会いが二つ有った。






彼に興味を示す者と、彼に興味がない者


二人の少女との出会いが、中弥を飲み込んでいくのであった。

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